先日、テレビを見ていますと、ある熱血な保育士さんのドキュメント番組をやっていました。
無邪気にはしゃぐ子供達を相手に奮闘されていまいした。
その保育士さんが、ズバズバと起こるトラブルを捌いて行きます。
強力なリーダーシップを発揮して、他の保育士さんにもテキパキと指示を与えていきます。
何せ、たくさんの子供達が各々勝手気ままに動き回るは、喚くはで、まさに戦場さながらです。
ちょっと、こちらを向いてる内に、あっちではトラブル発生。
女の子が泣いています。
子供のしつけには、充分な寄り添いがあってほしい。

スーパー保育士さんが、「どうしたの?なんで、泣いてるの?」
泣いてる女の子は泣き止まず答えませんが、近くにいた子供が、「〇〇君が蹴ったから」と説明を始めます。
早速、〇〇君が呼ばれて、どうして蹴ったのか尋ねます。
男の子は困った顔をしながら、あの女の子が「座り」と言ったので蹴ったと渋々答えます。
スーパー保育士さんは、「そうなん、それで蹴ったん?」「蹴ったら嫌やなあ」「言葉で言われたんやったら、言葉で返して欲しいなあ」「蹴るのは良くないなあ」と、その男の子に蹴ったことへの反省を促します。
「言葉で言ってるんだから、言葉で返さなあ、暴力はあかんなあ」と、教えます。
そして、男の子に謝ることを促します。
女の子が謝ってもらって、泣き止んで、一件落着。
という感じです。
子供の育て方に、大人の「正しい」を使うと・・
ここで、「なんでこうなる?」と思うのはわたくしだけでしょうか?
ここには、2つの前提が有ります。
まず、言葉と暴力では、暴力の方が悪いという固定観念があります。
これは大人が持っている「正義」です。
つまり、女の子と男の子では、男の子の方が強いという思い込みなのです。
まず、小さな子供に有りがちなのは、男の子は女の子に比べて、言葉を使う力が低いことがままあるということ。
女の子の方が、おしゃべりする能力が高く、男の子はそれに対抗しにくいということです。
決して、女の子より男の子が強いわけじゃありません。
女の子が、男の子に「座り」と命令した場合、同い年の小さな男の子にいろんな複雑な感情が起きているかも知れません。
男の子は、その感情のやりどころを上手に言葉で表現するのが苦手だから、手が出てしまうことが多いのです。
片方聞いて沙汰するな

スーパー保育士さんは、男の子に、「座り」と言われた時にどんな気持ちになったのか?どんな気持ちで蹴ったのか?と、男の子の気持ちを聞いてあげませんでした。
いきなり「暴力はいけない」「あなたが悪い」と、丸め込んでいました。
確かに暴力は良くない事です。
ですが、言葉も人を傷つけるには充分な武器になります。
どちらかというと、言葉の方が意味を持つわけで、心を傷つけるのは言葉の方が効果的でしょう。
充分に母親に愛されて育った子供は条件無しに自分を価値ある存在だと感じ、自分という存在に自信を持ちます。
しかし、この男の子が自分という存在に充分な自信がない子供だったとしましょう。
女の子に命令された時に、自分の存在価値そのものを脅かされるような恐怖を覚えたかもしれません。
テレビでその一時的な情景を垣間見ただけですので、確かではありません。
ですが、その男の子の表情はどう見ても快活ではなく、簡単に自分の気持ちを言葉で表現できるような男の子ではないように見えました。
なのに男の子は、蹴ったのが良くないと言われ、一方的に謝らされました。
これは、不器用で弱い立場である男の子が、自分の気持ちを押し殺して理不尽な扱いを受けてしまいました。
男の子の中には、抑圧された葛藤の記憶が残ります。
大人はすでに、常識といわれる見えなくなってしまった制限に囲まれて生きています。

「言葉より暴力が悪い。」
「女の子より男の子の方が強い。」
そんな大人の思い込みで、ジャッジしたらどちらかにトラウマが残ります。
喧嘩はどちらが悪いという事ではなく、双方の意思疎通が上手くいかなかった原因を確かめる必要が有ります。
女の子の気持ちも、男の子の気持ちも、明らかにして、双方が相手の気持ちを認めて、認められれば、心の傷にはならないでしょうね。